「点」なりて「天」なる

前回の記事では、あることをきっかけに駄洒落の可能性に目を付け、それが「お笑い」=「お祓い」であることを知り、その結果、関西で生まれ育った僕が、駄洒落の奥深さに目覚めたことを書きました。

そして最近、その中でいつも心に留めて過ごしているのが表題の件、「点」となれば「天」となる。ってこと。
少しだけ説明させてください。

僕たち一人分の存在の大きさは、この広大な世界においては、あるのか無いのかもわからないほどに極小たるもの。
それはそれは無数のこの世界の命があり、初めてこの命を未来に繋げていけて、無数の天と地の意志によって生かされているもの。

「Web of life」
昔ある人に教えてもらった言葉。これはネイティブアメリカンの言葉で「命の織物」という意味だそうな。

この世界は、無数の横糸=この世界に存在する無限なる生命達と、無数の縦糸=天と地よりの無限なる意志とが、織物のように織り合わさって初めて、この奇跡のような豊かな生命溢れる世界となっている。

そして己という存在は、その無数の縦糸の中の一つと、無数の横糸の中の一つが交差した、数え切れない程の交点の中のたった一つに過ぎない。それは、広大な広大な世界からすると、あまりにも極小な存在。

だのにどうだろう?
私が認識する、私の存在スケールとはどれほどのものだろうか?
上にあげたように極小の中の極小だろうか・・・・・・??

多くの人にとって、その答えは「NO」だろう。
私が認識する「私」は、私が認識する「世界」の中で、あまりにも大きい。
決して、それは、極小ではなく、事実とかけ離れたほど「肥大化」しているのが事実。

事実とは異なる実態がはびこっている。
それが現実。

しかし事実は、己とは、微小な微小な一点に過ぎない。
私が認識する「私」という存在スケールが、事実通り極小なる「点」となっていくとき
私が認識する、「私を取り巻く世界」は、事実通り「無限大」となる。

その時!!

「点」にまで収束した「私」という存在は
「天」、つまりこの世界そのものの意志と重なり
この世界の秩序、「理」そのものとなる。

無限小になればこそ、そこで初めて「無限大」となる。
全く矛盾しているようで、全く矛盾の無い、法則通りの事が起こる。

そんな事が駄洒落として湧いてきて、しかしそれは同じ思念を持つ言葉にて、同じもので無いはずがなく。
「点」とは「天」であり「10」でもある。
つまり飽和・安定の「8」をも超越した、「10」とは絶対完全なる姿でもある。

只々、自らを「点」となり、他を活かすパーツとして
しかしそのパーツとしての役割は過不足なく果たしていく自覚を持ち
無限大なる世界の一部になりきり、その先に「天」なれるべく努めていく。

そこには何の自意識もなく、承認欲求もなく
ただただ、己の役割を、最大限全うする意思があるのみ。
目立とうが、目立たなかろうが、淡々と傍を楽にさせるために働く。

全ての人々が、その意識でこの世界に生きたとき
全ての存在が「天の理」そのままに生き
この世界は本来の法則のまま、つまり「天然」の姿を取り戻す。

それが「地上に天国現わる時」。
それを目指してんだなぁって。
最近ずっとそんなことを想いながら生きてます。

以下は僕の師が、以前「天」より授かった文章をそのまま掲載します。

「全ては善への旅である」

どんなに真理を得ようと思っても、どんなに真理を生み出そうと思っても、それを受ける器がなければ真理は降りてこない。真理への道は無限にあるが、そこに行く意思がなければ意味がない。道を語ろうと思っても、聞く者がいなければ語れない。信じる者は救われる。求める者に道は開かれる。歩む者に目的は現れる。世界に痛みの伴う秩序があるのは、まっすぐ立つことへの指針である。道があっても目的地のない道は無意味である。曖昧な道を歩んでは目的地には到達しない。

世界に秩序があるのは目的地に人をいざなう為にある。秩序に溺れて漂う為に秩序があるのではない。世界の秩序を感じなさい。それはあなたを目的に導く道である。秩序が観えない者は目的地に行くことができない。秩序は世界の法である。秩序は世界のすべてに喜びを与える。世界は秩序の海である。秩序の中にあって内から自我を発する者は、法に反する者である。

内なる自我に捉われず、外の秩序に従うこと。内なる自我を取り去ることで内なる鏡が磨かれて、外の秩序が映し出される時、外の秩序が内の秩序になる。自我を捨てることではない。それは、自我を描くこと。そして自我の鏡に外なる秩序を映しなさい。そうすれば自我は消え、内なる秩序は無限の秩序となる。世界には秩序が蔓延している。道があることを知らぬ者に道はない。道を歩まぬ者に道はない。道を求めぬ者に道はない。道を待つ者に道はない。道を観る者に道は観える。道を歩む者に道は開かれる。道を歩む者に目的は観える。この世界には秩序がある。

この秩序が観えるか?すべてを繋ぐ秩序。織物のように紡がれ、無限に連鎖する。連鎖とは繋がり。目的はひとつ。すべてはひとつであること。ひとつであることは区別がないこと。その元には善意、愛、調和。その姿は真、善、美。世界を紡いでいるのは善意。愛に基づいた善意。美に基づいた善意。それが真理。世界に善を見いだせない者は内に濁りがある者。世界に悪を見る者は内に悪を持つ。世界の実相は善意。世界のすべてに善を観なさい。出来事は世界の真理、善を見るための情報。すべてに善を観ぬ者は内に悪を持つもの。すべてに善を観なさい。世界のどこにでも善を観なさい。

世界に善を観ない者は内なる悪を持つもの。汚れを取り去り、美しくしなさい。それを鏡としなさい。そして真理、善を内に映しなさい。その者は世界を照らす者。内なるものも外なるものも善を創るもの。この世界に悪などありはしない。悪があるとするならば、それは善への道しるべ、善を顕す為にある。すべては善の為にある。善という美であり、真理である。すべてに善を観なさい。

計る心に悪が生まれ、計る心に善が生まれ、計る心にすべてが生まれ、計らなければすべてが消える。

愚か者に悪が生まれ、光への旅に善が生まれ、光への旅に喜びが生まれ、光への旅に愛が生まれ、光への旅に調和が生まれ、光ヘの旅に真理が生まれる。

見えぬ者は内なる鏡の汚れに気づき、自らの盲目に気づきなさい。

真理を観る目を育てなさい。真理を観ようと努力しなさい。そして信じなさい。世界が善意で創られていることに目覚めなさい。愚かしいと思えることのすべては善の為にある。

すべては善への旅である。すべては善への旅である。すべては善への旅である。
すべては愛への旅である。すべては愛への旅である。すべては愛への旅である。
すべては調和への旅である。すべては調和への旅である。すべては調和への旅である。

その心が世界を美しくするのです。有難いことです。有難いほどの真理の元に、この世界の秩序がある。それに気づいたならば、どうして世界に不足など生まれましょうか。ただ有難いと思って生きるのみ。有難いことに気づいたならば、有難い神秘が世界に紐解かれ、有難いが現れる。有難宇御在益。

ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。
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