「トキ」が巡り、扉がヒラク

2016年6月21日「夏至」

一年に一度、巡ってくるこのトキ「夏至」

今年の夏至はスペシャルなポイントだった。

第1話 『宇宙の時間』 

 

この日から遡ること3年半。

2012年の「冬至」は、25800年ぶりに訪れた「銀河の冬至」だった。

太陽系全体が、陰極まる「闇のピーク」の時だった。

その冬至から前後3年半が次のステージへの移行期。

 

太陽系・銀河系スケールで星々は空間を運航し、時が刻まれていく。

星は確かに、時を刻み時代を動かしている

それに呼応して、地は地で、こちらの分を責任をもって刻む。

天と地の歯車が噛み合うとき、時代はダイナミックに変動を見せる。

 

 

 

ろうそくの青い火のように

静かだが、フツフツとしたエネルギーの塊が

今腹の奥で塊として疼いている

 

「トキ」は来たれり

移行の時期を終え

正に変化した姿を顕す

その時が  「今」来たんだ

 

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vibration

心を開くことだ
何か失敗をしたからといって、気を張って、力が入るのでもなく、緊張して固くなるのでもなく。 むしろ必要なのはその逆にある。

心を解き放ち、体を解き放ち、意識をずっと上、遥か広大な宙(そら)の方に向け、柔らかくなること。あったかくなること。
天に抱かれ、愛されていることを心で、魂で、身体中で感じる。
目一杯腕を広げ、掌を上に向け、上を見上げ心の扉を全開で天の側に同期させる。
そして、周りの人達を心の底から抱きしめ、愛を向ける。

愛をもって、感恩の念をもって、歓びでもって、嬉しゅうございます、楽しゅうございます。
信じています、委ねています、開いています。
愛しています。愛しています。愛しています。
ありがたくございます。ありがたくございます。ありがたくございます。

そうやって、内なるバイブレーションを変容させる。己から発するバイブレーションを変容させる。結果、日常起こりくる全てが根底から質的転換を起こす。 それは問題に対する対処療法とは全く逆のアプローチ。しかしそれこそが今必要。

全ては響きの時代に突入した。
今までのやり方に固執しても、それはもう通用しなくなってきた。 全てをリニューアルするときだ。

内に、どんなバイブレーションを満たしているか。
それが全てだ。

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問題は「何をするか!?」というところには無い。

最近、よく頭の中にことあるごとに何度も出てくる単語がある。

「形骸化」

「形骸化」を辞書で調べてみる・・・誕生・成立当時の意義や内容が失われたり忘れられたりして,形ばかりのものになってしまうこと。

同じようなことを表す言葉に「初心忘れるべからず」という日本語もあるね。

どちらにも共通するのが「何故それをやるのか!?」の意志が抜け落ちて、魂を失った状態になるってこと。

この3次元物質世界は、形あるものが幅をきかせて、「想い」や「心」が随分とないがしろにされているのが実情。
そして、その「想い」や「心」が無いところでも、「形」だけは簡単にやれるのがこの世界。
でも、そもそも何でも例外なく、全ての始まりは、何か目的や、理由や、意義や意欲や、意志や心があって、それらを表現する手段としてなんだかの形として現れてくる。
ところがいつしか、はじめのそういう「想い」を薄れて、失っていっても、形だけはいつまでもやろうと思えばやれてしまう。それがこの世界で、そういう「魂」を失った「形」が、あまりにもはびこっている。まさに「形骸化」の巣窟。

朝が来たから起きる。寝る時間になったから眠くなくても寝る。
月曜日になったから何も考えず満員電車に乗り込む。
食事の時間になったから、お腹も減っていないけどご飯を食べる・・・・・

そんなごく日常的なことから、社会的な大きなことまで、大小様々の「形骸化」が溢れている。しかし「意味」を失った「形」は、命を失っている。「何故それをやるのか」を忘れた行動は、すでに血が通っていない。

「霊主体従」それがこの世界の本来のしくみ。初めに「霊」、つまり「心」や「想い」があり、あとからそれにふさわしい「体」つまり「形」がついてくる。
ところが今のこの世界はとかく「体主霊従」になっていて、「形」ばかりが先行して「心」があまりにもおざなり状態。

大切なのは「何をやるか!?」ではなく、「何故それをやるのか!」だ。

もっというと、「何をして生きるか!?」が問題なのではい。
「どんな精神状態、どんな意識状態で生きているか!?」だ。

健全なる精神の元には、健全なる生活が表現される。それはしごく当然のこと。

自らの日常も、意識していないと、いとも簡単に形骸化を引き起こす。その目的を失った結果、意欲が湧き出なくなったまま屍のように日々を過ごすこととなる。

最近全ての日常に起こることに対し、都度都度自らに問いかけ、再確認して過ごすことをやりはじめた。
「何故それをやるのか!?」

心を取り戻す。
精神を宿す。
柱を立てる。

重要なのは「何をするか!?」ではなく、「どういう精神状態で生きるか!?」だ。
それを最近よく考える。
たいして中身の詰まっていない脳みそで(笑)

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「点」なりて「天」なる

前回の記事では、あることをきっかけに駄洒落の可能性に目を付け、それが「お笑い」=「お祓い」であることを知り、その結果、関西で生まれ育った僕が、駄洒落の奥深さに目覚めたことを書きました。

そして最近、その中でいつも心に留めて過ごしているのが表題の件、「点」となれば「天」となる。ってこと。
少しだけ説明させてください。

僕たち一人分の存在の大きさは、この広大な世界においては、あるのか無いのかもわからないほどに極小たるもの。
それはそれは無数のこの世界の命があり、初めてこの命を未来に繋げていけて、無数の天と地の意志によって生かされているもの。

「Web of life」
昔ある人に教えてもらった言葉。これはネイティブアメリカンの言葉で「命の織物」という意味だそうな。

この世界は、無数の横糸=この世界に存在する無限なる生命達と、無数の縦糸=天と地よりの無限なる意志とが、織物のように織り合わさって初めて、この奇跡のような豊かな生命溢れる世界となっている。

そして己という存在は、その無数の縦糸の中の一つと、無数の横糸の中の一つが交差した、数え切れない程の交点の中のたった一つに過ぎない。それは、広大な広大な世界からすると、あまりにも極小な存在。

だのにどうだろう?
私が認識する、私の存在スケールとはどれほどのものだろうか?
上にあげたように極小の中の極小だろうか・・・・・・??

多くの人にとって、その答えは「NO」だろう。
私が認識する「私」は、私が認識する「世界」の中で、あまりにも大きい。
決して、それは、極小ではなく、事実とかけ離れたほど「肥大化」しているのが事実。

事実とは異なる実態がはびこっている。
それが現実。

しかし事実は、己とは、微小な微小な一点に過ぎない。
私が認識する「私」という存在スケールが、事実通り極小なる「点」となっていくとき
私が認識する、「私を取り巻く世界」は、事実通り「無限大」となる。

その時!!

「点」にまで収束した「私」という存在は
「天」、つまりこの世界そのものの意志と重なり
この世界の秩序、「理」そのものとなる。

無限小になればこそ、そこで初めて「無限大」となる。
全く矛盾しているようで、全く矛盾の無い、法則通りの事が起こる。

そんな事が駄洒落として湧いてきて、しかしそれは同じ思念を持つ言葉にて、同じもので無いはずがなく。
「点」とは「天」であり「10」でもある。
つまり飽和・安定の「8」をも超越した、「10」とは絶対完全なる姿でもある。

只々、自らを「点」となり、他を活かすパーツとして
しかしそのパーツとしての役割は過不足なく果たしていく自覚を持ち
無限大なる世界の一部になりきり、その先に「天」なれるべく努めていく。

そこには何の自意識もなく、承認欲求もなく
ただただ、己の役割を、最大限全うする意思があるのみ。
目立とうが、目立たなかろうが、淡々と傍を楽にさせるために働く。

全ての人々が、その意識でこの世界に生きたとき
全ての存在が「天の理」そのままに生き
この世界は本来の法則のまま、つまり「天然」の姿を取り戻す。

それが「地上に天国現わる時」。
それを目指してんだなぁって。
最近ずっとそんなことを想いながら生きてます。

以下は僕の師が、以前「天」より授かった文章をそのまま掲載します。

「全ては善への旅である」

どんなに真理を得ようと思っても、どんなに真理を生み出そうと思っても、それを受ける器がなければ真理は降りてこない。真理への道は無限にあるが、そこに行く意思がなければ意味がない。道を語ろうと思っても、聞く者がいなければ語れない。信じる者は救われる。求める者に道は開かれる。歩む者に目的は現れる。世界に痛みの伴う秩序があるのは、まっすぐ立つことへの指針である。道があっても目的地のない道は無意味である。曖昧な道を歩んでは目的地には到達しない。

世界に秩序があるのは目的地に人をいざなう為にある。秩序に溺れて漂う為に秩序があるのではない。世界の秩序を感じなさい。それはあなたを目的に導く道である。秩序が観えない者は目的地に行くことができない。秩序は世界の法である。秩序は世界のすべてに喜びを与える。世界は秩序の海である。秩序の中にあって内から自我を発する者は、法に反する者である。

内なる自我に捉われず、外の秩序に従うこと。内なる自我を取り去ることで内なる鏡が磨かれて、外の秩序が映し出される時、外の秩序が内の秩序になる。自我を捨てることではない。それは、自我を描くこと。そして自我の鏡に外なる秩序を映しなさい。そうすれば自我は消え、内なる秩序は無限の秩序となる。世界には秩序が蔓延している。道があることを知らぬ者に道はない。道を歩まぬ者に道はない。道を求めぬ者に道はない。道を待つ者に道はない。道を観る者に道は観える。道を歩む者に道は開かれる。道を歩む者に目的は観える。この世界には秩序がある。

この秩序が観えるか?すべてを繋ぐ秩序。織物のように紡がれ、無限に連鎖する。連鎖とは繋がり。目的はひとつ。すべてはひとつであること。ひとつであることは区別がないこと。その元には善意、愛、調和。その姿は真、善、美。世界を紡いでいるのは善意。愛に基づいた善意。美に基づいた善意。それが真理。世界に善を見いだせない者は内に濁りがある者。世界に悪を見る者は内に悪を持つ。世界の実相は善意。世界のすべてに善を観なさい。出来事は世界の真理、善を見るための情報。すべてに善を観ぬ者は内に悪を持つもの。すべてに善を観なさい。世界のどこにでも善を観なさい。

世界に善を観ない者は内なる悪を持つもの。汚れを取り去り、美しくしなさい。それを鏡としなさい。そして真理、善を内に映しなさい。その者は世界を照らす者。内なるものも外なるものも善を創るもの。この世界に悪などありはしない。悪があるとするならば、それは善への道しるべ、善を顕す為にある。すべては善の為にある。善という美であり、真理である。すべてに善を観なさい。

計る心に悪が生まれ、計る心に善が生まれ、計る心にすべてが生まれ、計らなければすべてが消える。

愚か者に悪が生まれ、光への旅に善が生まれ、光への旅に喜びが生まれ、光への旅に愛が生まれ、光への旅に調和が生まれ、光ヘの旅に真理が生まれる。

見えぬ者は内なる鏡の汚れに気づき、自らの盲目に気づきなさい。

真理を観る目を育てなさい。真理を観ようと努力しなさい。そして信じなさい。世界が善意で創られていることに目覚めなさい。愚かしいと思えることのすべては善の為にある。

すべては善への旅である。すべては善への旅である。すべては善への旅である。
すべては愛への旅である。すべては愛への旅である。すべては愛への旅である。
すべては調和への旅である。すべては調和への旅である。すべては調和への旅である。

その心が世界を美しくするのです。有難いことです。有難いほどの真理の元に、この世界の秩序がある。それに気づいたならば、どうして世界に不足など生まれましょうか。ただ有難いと思って生きるのみ。有難いことに気づいたならば、有難い神秘が世界に紐解かれ、有難いが現れる。有難宇御在益。

ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。
ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。
ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。

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駄洒落を軽んじるべからず

文化として、ダジャレというものがあまり根付いていない関西で生まれ育った僕は、これまで駄洒落というものを軽くみてきた。
ダジャレはオヤジが使うもので、あまり面白くもなく、どちらかと言うと軽視してきたと思う。

ところが、最近、あることがきっかけで、駄洒落というものを、メッチャ見直すこととなった。
見直すどころか、駄洒落ってスッゴイじゃーーーーん!!と、はっきり言って今ではかなり絶賛している。

そのあることとは、ある時、仕事をしながら考えていた時に、字は違えど、同じ音を持つ言葉は、同じ思念を持つことに気づいた。
思念とは、想念ともとれ、言魂であり、簡単に言うと、意味である。
つまり同じ意味を有している。

それが、駄洒落には、面白いほど、正に同じ思念(意味)が込められているのが見えたとき、正にこれは「カタカムナ」そのものであることに気がついた。
「カタカムナ」とは、古代日本にて栄えた文明であり、カタカムナ語は、高度に宇宙法則を理解したカタカムナ人が用いた、宇宙の原理をヒビキと文字に表したもので、ここ木の花ファミリーでも一年以上前からとても大切にしているもの。

そうして、駄洒落にカタカムナ的要素がガッツリ含まれていることが見えてきた時に、「これはスゴイ!!」と思い、そうするとドンドン発想としてダジャレが思い浮かぶようになってきた。
そうしているときに、いっしょにダジャレの可能性を話していた「まっちゃん」が「お笑い=お祓い」であることが分かった。

「笑」という字は何を表してるんやろ??と思って調べてみると、これは、巫女さんが両手を手に向けて上げ、舞い踊る様子の象形文字であるというだそうだ。

(以下その時の会話)
「そうなんや!! それって神事やん!」
「笑いって、神事なんや!」
「ハッ! お笑い(おわらい)は、お祓い(おはらい)なんや」
「うぉーーーーーー!!   スゲーーーーーーーー!!!」
「確かに笑いのあるところに、邪気なんて寄り付かんよなー」
「っていうか、笑ってたら邪気なんて逃げ失せるでー」
「大笑い(おおわらい)は大祓い(おおはらい)なんや!」
「マジやーーーー!! スッゲーーーー!!」

とまあ、笑いというものに対する見方も超上がって、目からウロコの気づきになった。
に合わせて、ダジャレには、カタカムナ的要素も持ちつつ、笑いまであり、つまりお祓いの要素まであるってことが分かって、ただのオヤジギャグだと思っていたのから、メチャクチャ見直すこととなったのでした。

でもね、マジな話、面白いほど同じ思念を持つのが見えてくると、その意味がグッと高まるんです。
その言葉の持つ深みが増してくるんです。

分かるかな・・・・・!?
この感動を一体どこまで感じてもらえているのか疑問ではありますが、とにかく、ダジャレは決して軽んじるものではなかったというのが結論であります。

てなことで、最近はチョコチョコ駄洒落を言うオイラであります(笑)
まぁ勿論それも親父化してきていることも影響しているんやろうけど(笑)

じゃ、今日はこの辺で。
次回以降、それにまつわることも徐々に書いてみようかと思います。
バイチャヽ(*´∀`)ノ

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「木の花茶会」 ~春色! いちごのティーパーティー~

久しぶりのブログの更新ですが、今日は昨年秋に初めて開催され、それはそれはご来場いただいたお客様に、大満足の感想を多く頂き、初めての挑戦ではあったけど、大成功のもとに幕を下ろした「木の花茶会」。その第2弾がこの春再びやってきます!

手作りでとってもキュートに仕上がったチラシの表

手作りでとってもキュートに仕上がったチラシの表

ー以下案内ページより抜粋ー

「一生の思い出になります」と言われるお茶会 ――――

木の花茶会は、自分たちで大切に育てた、いのちの響きあふれる紅茶や小麦の美味しさを、多くの方に味わっていただきたい、という想いから始まりました。

いつもよりゆったりとした雰囲気で、普段は料理をすることのないメンバーたちも一緒になって試行錯誤し、時には夜中まで試作を重ねて、気軽に愉しめるアフタヌーン・ティーとして昨年11月に初めて開催された第1回木の花茶会は、お客さまからも「手が込んでいてビックリ!」「清楚でにこやかで自然な味わいが、体が満足したという感じ」「ひとつひとつ素材を生かしたやさしい味で、気持ちまであたたかくなれました」と大好評。中には「一生の思い出になります」という声もありました。

前回のデザート盛り合わせ

前回のデザート盛り合わせ


ー抜粋ここまでー

そして今回のデザートは、なんと! 「いちごづくし」

天然循環法でとれた、完全無農薬、奇跡のイチゴです!

天然循環法でとれた、完全無農薬、奇跡のイチゴです!

詳しいメニューや、その他前回のメニューの写真の数々。
そしてお客様の感動の声などは以下より。
ご予約、お問い合わせも同じく以下のリンク先にお進みください。

http://www.konohana-family.org/news/4%E6%9C%884%E6%97%A5-%E8%87%AA%E5%AE%B6%E8%A3%BD%E7%B4%85%E8%8C%B6%E3%81%AB%E3%81%84%E3%81%A1%E3%81%94%E3%81%A5%E3%81%8F%E3%81%97%E3%81%AE%E3%83%87%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%88-%E3%80%9C%E3%80%8C/

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僕達に託されていること

今日、一日の中で2回ほど「ウルッ(涙)」となることがあった。

一つは、木の花にとっての聖地とされている「宮下広場(みやのしたひろば)」という場所があるんだけど、そこがこれまで、聖地と呼ばれている割に、これがとっても美しくない(笑)
薪にするための廃材が山と積まれていたり、使わなくなってボロボロになった炭焼小屋があったり、いろんな堆肥が積まれていたりして。

ところが、去年あたりになって、ようやく聖地であるからにはそれにふさわしい場として整備していこうという話が持ち上がった。
そこから徐々に整備したり、片づけたりしてきていて、今日前を通る時に横目に見たら、一昨日までなかなか片付けられず残り続けていた木ガラの山が一つ片付いてスッキリしていた。
それを見たときに、すんごく嬉しくなって、なんだか魂から嬉しくて、運転をしながら涙が「ウルルン」となった(笑)

そしてもう一つは、来週末に迫ってきた「富士浅間 木の花祭り」で、今年から新たに加わる演目である、「金神様」の面を、メンバーの「りょうちん」が手を入れながら魂を吹き込む作業を連日してくれている。その面の作業もいよいよ大詰めになってきて、随分仕上がって来たのを見て、これまた魂が喜んで「ウルルン」となった。

完成間近の「金神様」の面

完成間近の「金神様」の面

制作担当者の「りょうちん(ひだり)」とオイラ(右)

制作担当者の「りょうちん(ひだり)」とオイラ(右)

なんでそうやって今日2度もウルルンとなったのかと思い返した。
ただどこかが綺麗になって片付いたのを見ても、気持ちいいし嬉しさはあるけど、涙がこみ上げてくることなんて普通は無い。
同じように、誰かが何かを制作する工程で、いい仕事をしてくれているのをみても、涙が出るようなことは無い。

じゃあなんで今日は「ウルッ」ってなったんかな?と思うと、それって「神様がお入りになる、また、降りてこられる場を整え、受け皿を準備出来ているということ」を感じて、その有り難さを感じ、魂から嬉しくなったから涙が出たんやってことに気がついた。

宮下広場が、片付いて、セレモニーをするにふさわしい場へと一歩一歩近づいて、神様がおいでなさる場へと整っていくのを感じたとき。
祭りで、一番の主役となる「金神様」が降りて来られる器となる面が仕上がって来たとき。
どちらも、僕たちがこうして日々やっていることは、一言で言うと、「聖地造営」の役割を担わせていただいているってこと。
神様が降りてくる受け皿を、用意させていただいているということ。

「あぁ……、これが僕たちに託された役割としての最たるもの、そのものなんやな」って思った。
そしてそれは、先に書いたような、目に見える形あるものとしての「聖地造営」もあれば、目に見えない形なき「聖地造成」もある。
それは、僕たち一人一人が、神様の降りてきて頂ける器へとなるべく、自らの心・内面を見つめて、罪や穢れを祓い清めていくということ。

そう、これこそが僕たちに託されていることそのもの。
この世界に降りてくる前に、天と約束してきた役割。
それをちゃんと担えてるなって感じられたとき、言葉では表現のし難い喜びに包まれる。

そしてさらに今日はもう一つ、木の花祭りに関することでドラマがあった。
祭り当日、道路端にノボリを立てるんだけど、その文字を、例のごとく「まっちゃん」に今日書いてもらった。

朝から、そのまっちゃんに意識圧を注入するべく、15人ぐらいが集まって円陣組んでから取り掛かってもらった。
午前いっぱい、試行錯誤しながらいっぱいいっぱい書いてくれた。
しかしそれをみても、「これやっ!!」っていう書がなかった。そこにはまっちゃんの迷いがみてとれて、まっちゃんという人が書いていた。

なかなかいい字が書けず、いっぱい書きまくった。 実際はこれの倍以上を書いた笑

なかなかいい字が書けず、いっぱい書きまくった。
実際はこれの倍以上を書いた笑

それで、自意識を無くして、天が降ろしてくるのを感じて、一気に書いてということで再度トライを促した。
出来たものは、多少良くなったけど、それでもまだもうひと押しということで、今度はみんながいる前で書いてもらおうということになった。
それで笛隊のあやちゃんも呼んできて、笛で祭りの音を鳴らしながら、まわりで囃子声をみんなで唄った。

いい字が降りてくる場を創るために、まわりで笛を吹いたり、唄を歌ったりするメンバー達

いい字が降りてくる場を創るために、まわりで笛を吹いたり、唄を歌ったりするメンバー達

みんなのエネルギーを感じながら、祭りの愉しさを思い浮かべながら、みんなの見守る中で一枚書いて、かなり良くなった。
しかしあとちょっとのところで字が紙からはみ出たりして、再度トライになった。とその時、その2枚で紙が全部無くなった。
業者への入稿期限は今日の午後4時がタイムリミット。
紙を買いに行っている時間は無い。
最後のトライだった。

再び部屋に響く笛の音と唄い・・・・・・・・・・。

「ノボリ」を書くために、気持ちを集中する「まっちゃん」 正に祈る気持ち

「ノボリ」を書くために、気持ちを集中する「まっちゃん」
正に祈る気持ち

神業だった。
書き出しの「マルチョン」から魂が入っていた。
それだけを見て、最後の一枚やけど、「これはいける!!」って思った。

皆が見守る中、最後の一枚に筆が走ります

皆が見守る中、最後の一枚に筆が走ります

そうして仕上がった書は・・・・・・

皆で作った意識の場から出た、入魂の一枚

皆で作った意識の場から出た、入魂の一枚

文句なしにそれまでで最高のものが現れた。
書いたまっちゃんも「こんな字、自分からは絶対出てこないよ(笑)」
「音楽が鳴る中で、みんなに見守られて書を書くなんて初めてのことだった。でもこんな感覚で書いたのは初めてで、自分で書いた感じじゃない!」って言った。

書き終わって、思わず書に平伏してたもんね(笑

最後まで書き終えて、自然と文字に向かってひれ伏すまっちゃん

最後まで書き終えて、自然と文字に向かってひれ伏すまっちゃん

正に「アマウツシ」。天の道具となりて天意を降ろす。
木の花祭りで表現しようとするそのものが、このノボリの書を作るときにも現れた。

そんなこんなで、一歩一歩、確実に各工程において、魂がそこに入りながら祭り準備は着々と積み重なっていっているのを感じる。
とても力強く、とても気が引き締まる思いだ。

この「木の花祭り」そのものもまた、「聖地造営」の一つに他ならない。
こうして、僕たちは日々、天より与えられし役割を担うがため、世にも稀なる生き方をしている(笑)
でもこれが、ただただ尊くて、ただただ勿体無い気持ちでいっぱい。
あまりも有難い役割であり生き方やなって。

それをまた一つ感じた今日この頃で、久しぶりにBLOGに書きたくなったので書きました。
どうもありがとう。

そして、「富士浅間 木の花祭り」、沢山の方々のご来場をお待ち申し上げております!

最後に、去年の木の花祭りを約1時間にまとめたダイジェスト版映像を紹介いたします。

でわ^^v

カテゴリー: Spirits